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質問

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なかなかお答え出来る方は少ないかもしれませんが、
太平洋戦争などの戦争体験談を知りたいのですが、
お聞きしたお話等でもいいので色々聞かせてもらいたいです。
以前インターネットで見たもので、
おじいさんは戦争で人殺しをしていたんだよね、
というのがありました。
頭の悪い人はなんとも思っていなかったが、
頭のよい人はとても悩んでいたというお話が載っていて、
印象に残っています。
どうぞ宜しくお願いいたします。

  • 質問者:あほ
  • 質問日時:2008-05-08 18:46:02
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これは少々乱暴な質問ですよ?
頭の良し悪しというのは関係ないんじゃないかな?
当時の農村は貧しいところはホントに貧しくて、
学校にも通えない子供達がゴロゴロしていました。
であれば、周りが「それが正義だ!」と口々に叫べば、
そんな気がしてくるのはやむを得ないことです。
頭の良し悪しにかかわらず。ですからそこは教育の話ですよ。
また、高学歴で更に海外での勤務経験がある軍人だって、
自国の領土の危機ともなれば腹が立って当然でしょう。
そもそも理不尽な戦争でしたから。(戦争は大抵理不尽ですが。)

さて、本題に戻りますと、私の記憶ではそれはwebサイトではなく、
書籍だったように思います。

おじいちゃん戦争のことを教えて―孫娘からの質問状 (小学館文庫) (中条 高徳)
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%8A%E3%81%98%E3%81%84%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%82%92%E6%95%99%E3%81%88%E3%81%A6%E2%80%95%E5%AD%AB%E5%A8%98%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E8%B3%AA%E5%95%8F%E7%8A%B6-%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E9%A4%A8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%B8%AD%E6%9D%A1-%E9%AB%98%E5%BE%B3/dp/4094030069/ref=pd_bxgy_b_text_b
・・・たしかこれじゃなかったかな・・・?参考までに。

あと、印象に残っている戦時中のエピソードでは、なぜだかこのようなものが真っ先に思い出されました。
大戦末期の硫黄島、絶望的な戦況の中で日本軍は乏しい弾薬を最大限有効に使うために篭城戦、ゲリラ戦を展開していた。
ある夜のこと、上陸していた部隊のハワイ出身の若い兵士が物音に驚いて銃口を向けると
一人の日本人兵士が立っていた。
驚いたのはその日本人が英語で語りかけてきたことだ。
「あなたはどこの出身ですか?」
米兵は自分がハワイの出身であることを告げると日本人兵士は嬉しそうにとある地名を知っているか?と尋ねた。
米兵が知っていると答えると日本兵はポケットから鍵を一つ取り出し、米兵に渡した。
「これはそこのガレージに入っているコルベット(車。でもうろ覚え)の鍵だ。君にあげるからどうか大事に乗って欲しい。」
米兵は驚きながらも受け取ると、近く予定されている(爆撃か艦砲射撃?)で命の危険があるから、と投降を勧めたが、
「私は日本人として戦ってきた、後悔はしていないし日本人として死にたい。(とかなんとか)」
それだけを言い残して再び硫黄島の闇の中へ消えて言ったそうな。
前線から戻ると、確かにその場所にはピカピカによく手入れされたコルベット?が本当にあったそうです。

「」

  • 回答者:A/J (質問から27分後)
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戦争に関する小説を書きたいと思い質問させてもらいました。
貴重なお話まことに有難うございます。
是非参考にさせてもらいます。

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両親から聞いた戦争の話です。

母は小学6年生、疎開をせずに、東京都江東区に住んでいました。
3月の東京大空襲にあっています。空襲が来たとき、川のイカダに家族で
飛び込んだそうです。でも弟を背中におぶっていたそうで、イカダに
飛び降りれず、川に落ちて引き上げてもらったそうです。
3月ですから体は冷えきっていて、そのうち、なんともいえないお花畑にいるような、いい気持ちになり(たぶんあの世に行きかけた)、背中の弟がお漏らしを
したので「背中に火がついた」と叫び、蘇ったそうです。川にあったイカダに
乗った人も皆が助かったわけではないようです。また、卒業式のため疎開先から帰ってきていた小学6年生達もたくさん東京大空襲では死んでしまったそうです。

父は大阪人。終戦後も大阪湾にはたくさんの魚雷があったそうですが、
中学生の父と小学生の妹と、祖父で船に乗り、九州に向かおうとしていたときの
話です。救命胴衣も着ていたのですが、船が魚雷に当たり、爆発、沈没してしまったそうです。父は泳ぎ、妹は何か板につかまって、助けられたそうですが、祖父は見つかりませんでした。

  • 回答者:ラビ (質問から10時間後)
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戦争に関する小説を書きたいと思い質問させてもらいました。
貴重なお話まことに有難うございます。

ご近所のおばあちゃんに聞いた話ですが
空襲の際、当然逃げ惑う人の中で転んだまんまふみつけにされながら
「だれかぁ・・たすけてぇ・・・・」とかすれて出ない声をふりしぼって
若いお母さんが浴衣姿で泣き叫びながら
3つぐらいの子の手をにぎりしめながら地面を逃げる人の足に蹴られながらはいずっていて
まだ子どもだったおばあちゃんは、必死でその子の手をひき
つれて逃げるから、おばさんもいっしょに走ろう!と
見ると
なんと そのお母さんの下あたりが血みどろで 
良く見ると赤ん坊の顔が半分出ていて 
赤ん坊の顔つきが異様で 既に死んでいるような感じに見えたと。。

その後手をひい手に逃げた子は いつのまにかどさくさに消え
そのお母さんもどうなったかはわからないということです。

あれは、恐らく空襲警報におびえて産婆が逃げたんだろうと言ってました。

人間の善の限りは どの辺まであるのだろう?

家族を守り 守る人である自分を守るためには
どんなに優しく勇気ある人物でも 限界の危機ってあるんでしょうね。
いままで聞いた話の中で
わたしには これが心底身震いするような
ほんとの意味の「人」の怖さの寄り集まったものだと感じ忘れられず
自分ならどうしてただろうと 自信もなく 考えさせられた話でした。

  • 回答者:サラ (質問から6時間後)
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戦争に関する小説を書きたいと思い質問させてもらいました。
貴重なお話まことに有難うございます。

貴方が何故戦争体験談をお知りになりたいのか良く判りませんが、3年前私は4~5月の連休に、九州一周一人旅をしました。
 その時鹿児島の知覧へもお邪魔し、特別攻撃隊の基地であったところも見学させていただきました。
 私が展示してある神風特攻隊員の遺書(辞世の句?)を一つ一つ読んでいたところ、かなりの年配の女性も涙を流しながら、丁寧に一つ一つ涙に霞んだ目で読んでおみえでした。
 私も昔若かりし頃、酔った勢いで軍歌など歌っておりましたが、それを境に二度と軍歌を歌わないし、戦争をするべきでない・・と心に誓いました。
 戦争はどちらが勝ったにせよ、負けたにせよ、これほど悲惨な出来事はありません。
 回答になっていないかもしれませんが、是非貴方も知覧を訪れてください。

  • 回答者:Chap (質問から6時間後)
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戦争に関する小説を書きたいと思い質問させてもらいました。
貴重なお話まことに有難うございます。

母から聞いた話です。母の兄2人は志願兵として海軍と陸軍でそれぞれ南方に出撃していたそうです。ある国で偶然出合ったので一日休みを貰って2人で過ごした帰りに、海軍の兄が「明日あの船で出撃する」と言ったそうです。その2日後に陸軍の兄はその船が魚雷で撃沈されたと聞いたそうです。その後、幸運にも故郷に帰れた陸軍の兄は帰ったその日に「あいつ(海軍の兄)はもう帰ってこないぞ、船と一緒に沈んだから」と両親や兄弟たちに言ったそうです。しばらくして空の箱が死んだ兄の代わりとして帰ってきたので、それをお墓に納めたそうです。
その伯父のお墓参りをするたびに母から聞かされました。

  • 回答者:areki (質問から3時間後)
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戦争に関する小説を書きたいと思い質問させてもらいました。
貴重なお話まことに有難うございます。

母の実家はど田舎です。叔父などは戦時中小学生だったと思うのですが、飛行機が飛んで行くのは見たけど、空襲警報は1回も聞いた事がない。疎開に来てた子も知らない。と言っていました。そんな場所があったのか、と逆に驚かされました。

小学生の頃、自分の町の歴史を知ろうという課題が出て、グループ研究する事になりました。戦時中の事を調べようと、学校近くの商店のおばあちゃんにインタビューに行きました。
そこで小学校付近は空襲で大変だったという話を伺ったのですが……
その際、遺体を安置し、その後処理のため遺体を火葬した場所は通っていた小学校だったと衝撃の事実を聞いてしまい、しばらく怖かった覚えがあります。
そういえば、学校そばの高台の公園の斜面には、防空壕跡がいくつかありました。中に入ってはいけない、と大人達からきつく言われていましたねえ…。

通っていた高校の敷地のどこかに、戦時中の戦闘機があるという話を聞いた事があります。一度探検して、窓からちらっと見た事があったような…。以前は展示されていたらしいです。

また地元に、戦車工場跡地の洞窟を酒蔵として利用している酒造業者もあります。

以上、親子で戦争を知らない世代である私には、浅い知識しかありません。あとは戦争に関するテレビ番組を見たり、読み物をいくつか読んだ事があるだけです。

参考になりそうなサイトをいくつか…
http://homepage3.nifty.com/wedd/index.html
http://www.ne.jp/asahi/gakudosokai/s.y/
http://www.h5.dion.ne.jp/~s600days/

  • 回答者:9×9 (質問から3時間後)
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戦争に関する小説を書きたいと思い質問させてもらいました。
貴重なお話まことに有難うございます。
是非参考にさせてもらいます。

亡くなった昭和3年(1928)生まれの祖母が聞かせてくれたのですが、祖母の実家は和歌山駅近くに暮らしていて、大きな空襲に襲われたそうなんですね。
和歌山城のお堀には熱さから逃れた市民が飛び込んでいて、家を焼かれて紀ノ川まで逃れた祖母は、沢山人々が川に逃れて来た人たちで埋め尽くされていたと言っていたと思います。
和歌山市を流れる紀ノ川は本当に大きくて、河原も広いんです。ここに沢山の人が逃れて来たのかと思うと…。
話自体はもう20年以上前に聞いたのでうろ覚えですが、祖母が健在の時は里帰りに着いて行って(我が家から100キロ近く遠い)、和歌山城に行ったり、紀ノ川を渡ったり何度もしていましたが、亡くなる少し前にこの話を聞いたので、幼い時は無邪気に観光していましたが、今は通るたびに色んな想いが駆け巡りますね。
『和歌山大空襲』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2

  • 回答者:talo (質問から3時間後)
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戦争に関する小説を書きたいと思い質問させてもらいました。
貴重なお話まことに有難うございます。

母から聞いた話です。東京にいたので空襲の被害も目の当たりにしたそうですが、10歳ぐらいだったためか、燃えている町が綺麗に見えたそうです。食べ物も配給制で十分になかったのですが、やはり子供の強さというか、そういうものだと思っているので、薬を頭からかけられたり、今思うと当の本人も大変だったと思うことも当時はそういうものだと思って受け止めていたようです。ただし、母の兄が戦地に行って死んだ知らせを聞いたときだけは、ものすごく悲しい思いをしたとのことです。平和になってから戦争の恐ろしさを感じたといっています。

父から聞いた話です。当時学徒兵として戦地の台湾に行きました。父の父は息子が戦地に行くときに乗り込んで発車する汽車を父の名前を叫びながら「万歳!万歳!」と涙ながらに見送ったとのことです。(半分は返ってこないと思われていたようです。)父は幸いにも通信係だったため人を殺すことはなかったようですが、当然、命令があれば自分も殺す立場にいたとのことです。周りの戦友たちについては、昨日食事を一緒にとった仲間が今日殺されてしまうなどという、言葉にできない思いをしたようです。運よく命を落とさず帰れたときは父の母が港で(それこそ岸壁の母そのものです)待っていたそうです。父にとっては戦争はあまりにも辛い体験だったようで、めったなことでは戦争体験を話すことはありませんでした。しかし、亡くなる数年前に出向した台湾の地を娘をガイドにして訪ねました。何も良いことがなかったはずの場所ですが、本人が望んだので行くことになりました。時間は戦地の風景を相当変えていたようです。ほんの少しの面影もなかったと、普通の海外旅行に行ったような雰囲気で帰ってきました。

  • 回答者:詠寛 (質問から51分後)
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戦争に関する小説を書きたいと思い質問させてもらいました。
貴重なお話まことに有難うございます。

身近にいないとなかなか聴けないですよね。

私の祖父は今年で85歳。同居なので本当に毎日、ふとした瞬間に話題を繋いで戦時中の話をしてくれます。重いものもあるし、その中でも良い思い出もあるし。

とにかく、物質では残していません。というのも、国の命を受けていったにもかかわらず、帰ってくるなり軍人は犯罪者として見られたからです。処罰されるというまことしやかな噂も当然の如く流れて写真から何から、全て処分。祖父の記憶だけが頼りです。

今でも戦友会や同期会などで年に数回皆で集まりますが、全員年を取ってきて、人数もどんどん減っているとのこと。時間の流れを痛感します。

私の祖父は戦車学校を卒業して、陸軍として満州へ行きました。ソ連軍とのにらめっこです。2冬をそこで過ごします。零下40度の極寒、体感ではもっと下がっていたとのこと。

その後、フィリピンへ行くはずだったのが、負け試合になってきて船が足らず、結局連絡船数隻だけになってしまったのでそれで本土へ帰ることとなり、そのうちにフィリピンは落ちたとのこと。全てが紙一重です。その船で本土へ戻ってこなければ、もう二度とこの地を踏むことはなかったかもしれません。

戦争の話は詳細に聞くと生々しくて恐ろしいですよ。何が一番恐いって、全ては人間のやっていることで、避けられない自然災害なんかではなく、人間ひとりひとりの判断でお互いに断末魔の苦しみを味わうということです。何がいいのか?何が悪いのか?何を守るのか…

当時の国会で、たった独りだけ戦争に反対された方がいらっしゃったのをご存じですか。戦争ムードに染まる国のトップに、彼は割腹して戦争反対を訴えました。ところが戦争反対者がいなくなったのを良いことに、とうとう政府は戦争をけしかけてしまったのです。今の政府とは大違い、命がけで国を守ろうとした人をも、戦争は飲み込んでかき消してしまった。

もし私の知っていることで良ければ、本当に一部分でしかないですが、お答えできるかと思います。

  • 回答者:22。 (質問から38分後)
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戦争に関する小説を書きたいと思い質問させてもらいました。
貴重なお話まことに有難うございます。
もし時間がありましたら、こんな話が聞きたい、というわけではない漠然とした質問なのですが、
色々お聞かせ願います。

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