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私は浄土真宗(西本願寺)の寺の住職をしています。
長野県長野市から佐久市に寺の拠点を移しました。今まで浄土真宗(西本願寺)の寺が、この佐久地域には無く、新たな寺として再出発をしました。
末法の世と叫ばれ、仏教の教えが人の心の中から無くなっていくという現実は悲しいものです。浄土真宗の根本でもある法話による布教伝道が大切であり、一人でも多く親鸞の教えを通して、心の問題の解決につながればと思っています。
寺が無くなっていく時代に反してこんなことは無謀だと思いますでしょうか。このような寺、住職に興味ある方の投稿お待ちしています。

ホームページ
http://www.mangyoji.jp/

  • 質問者:のぶやま
  • 質問日時:2010-04-07 15:55:39
  • 2

古くは奈良、京都の、僧兵、強訴、近くはただお寺の利権を相続するために仏教大学に行くものetc、、、。
ゆえに時々真に釈迦、もしくはその弟子の教えを守っていこうとするかたを見聞きすると感動を覚えるときがあります。インドにいって仏教を広めカーストから開放している日本人のかた(名前を度忘れしました)など、、、。
「寺がなくなっていく時代~」
今までの、既存の、有る意味建物としての寺を守る方であれば、その姿勢もいいのかもしれません。
でも、親鸞、釈迦は建物のガードマンだったのでしょうか。
多くの人々を迷い、悩みから助けだす事を本望とし、寺がxxなど、恐らく考えもしなかったでしょう。
せっかく仏道に入られたのですから、ご自身のことなどかんがえずひたすら道に励まれたらと思います。
あの「雨にも負けず、、、、でくの坊と呼ばれ、、」のモデル、斉藤宗次郎は、禅寺の三男
でしたが、キリスト教の伝道師になり、石をなげられ、肥溜めに投げ込まれ、実の息子を村人にリンチ(殺され)されても布教をやめませんでした。
花巻での布教が終わり、別の任地に行くとき、お寺の僧侶も含め村人が総出で見送られたそうです。
彼をはじめ、明治~昭和初期あたりのキリスト教伝道師の情熱は、感動以上のものを覚えます。もし在来仏教の方が、彼らの半分でも布教への情熱があれば日本の宗教史も変わったと思います。オウム事件などもなかったかも知れません。
もし、無謀という意味が、将来、ご飯が食えない、などという類のものであれば、一刻も早く俗世間に戻られることをお勧めします。
あなたは、悩み、苦しまれている方を、とらわれから開放するべき方ではないでしょうか。アーナンダじゃあるまいし、いまさら他の人に自灯明、法灯明などといわれる必要もないでしょう。
生半可な、中途半端な努力、布教だから自信もなく、不安も出るのです。
親鸞の時代、戦乱飢餓で生きる希望もなかったとき、親鸞は寺ももたずご自身の教えで人々の苦しみを和らげていたはずです。既存の寺からの攻撃、悪人正機説の誤解、
自身の苦難、、、、それらに比べたら、、。
ぜひ人々の光となっていただきたいものです。
寺を守ったり、釈迦の言葉に反した伝統を守るより、地獄の苦しみに陥った一人の見知らぬかたを助けるほうが、釈迦、親鸞のそばにいく方法ではないかとおもわれます。

===補足===
知ったかくそがきの高飛車な戯言にお付き合いいただき、感謝しております。
こういったところで、、仏教用語を披露したり入信させなくても、悩み苦しんでいる方を見つけ、一緒に迷い、回答してあげるのも、時代にあった布教のようなきがします。
親鸞の悪人正機も、あの時代の人には理解しがたい、革命的なことでした。
でも、だからこそ今でも親鸞聖人は尊敬を受けているのだと思います。
知り合いに、といっても顔見知り程度ですが、アパートの自宅を寺と称して改装し、頭を丸め、八正道に励んでる方がいます。もちろん正式な得度など得ていません、信者も、寄進もありませんが、、これも大乗仏教ならありな気がしています。
人間は弱いので形あるものに救いを求めがちです。
築地本願寺の本堂の威風も、あの当時、差別、貧困の中でだからこそこれだけの寄進を信者がされたのだと思われます。きっと完成した時その美しさに寄進してよかったと多くの信者が思ったと思います。(洋風?インド風?な建物に驚き、落胆したかも、と築地、銀座方面にいくとついおもってしまいます。)社会の中で、弱く、苦しい立場の方が多く信者になられている浄土宗だからこそ立派なお堂が必要なのかも知れません。
旧約聖書の「聖像を拝んではならない」とあるのに、何度もあの当時のユダヤ人が金の牛の像を拝んだり、聖像崇拝のある多神教を信じてしまったりして、指導者が怒る話、
キリスト教が本来聖像崇拝禁止なのに世界中にキリストの像があふれ、場合によっては聖母マリアがキリスト以上に崇拝されてたり、、、どうしても形あるものに頼りがちです。
お年寄りが、立派な本堂をみて信仰心を深めたりするのも、寺側が立派な伽藍にしたいのもわかる気がします。
批判的な書き込み、ではなく、叱咤激励、というか、がんばっていただきたい、という気持ちがあらわれすぎて、かつ、文才がないのでこのような書き込みになりました。
もしあの当時の親鸞のように、伝統を守るだけの仏教界に革命を起こそうという方の書き込みであれば、これを見るのにこれほどの喜びはない、とおもい書き込みしました。
今後のご活躍、期待しています。

  • 回答者:善信? (質問から2時間後)
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貴重なご意見有難うございます。
事実、「寺が無くなってく時代」と書かせていただきましたが、それは宗教界全体の危機ということをお伝えしたかったことでもあります。私も貴殿が仰る寺依存には疑問をいだくものです。しかし、それは従来の寺の姿は必要はないという意味で疑問視していることです。つまり浄土真宗の寺は布教所であるということに立ち返らないといけないと思っています。しかし、寺という形式や組織を作らないと僧侶は動けない現実もあることも確かです。
未だ住居兼の仮本堂ではありますが、たとえば立て替えをして立派な大きな本堂を建てられる寺を見るにつけて、「ハァー」とため息をつくことが多くなりました。それは、あの建物が人の見栄や名誉の塊(かたまり)だと感じるからです。そのために莫大な資金を門徒から集めて、あたかも立派なことを成し遂げたようなことが多々あるのではないでしょうか。あまり、批判的にみられたくありませんのでここまでにしておきますが、寺は人が集まり法を聞くところであるということをモットーに、布教伝道に励みたいと思います。

並び替え:

私の田舎も人口6万にいましたが、今では年寄りばかりで人口が2万人近くになりリ、お寺も住職がいなくなりつつあります。つまり、檀家制度が崩壊して、寺の生活も伽藍の維持も困難となってます。今思えば、寺が多すぎた感じです。これからが、宗教界の淘汰が本格的に始まると思います、所謂、葬式仏教では成り立たなくなるでしょう。葬式もしない家族が増え、末法の世の中ですが、釈迦の教えに戻る必要があるといえます。勉強して、死人へではなく、生きている人に釈迦の教えを説いてください。

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有難うございます。
確かに昔は仏事は家庭の中で大切なものとしてきた生活様式がありました。しかし、高度成長に伴って、仏事は年寄りのすることという観念が自然となりました。ですから、一家の主が亡くなると葬式でしか寺と関わらなくなる現実も生まれました。そういったことも一因で「葬式仏教」とも言われるのでしょう。
しかし、昔の家庭環境にはもう戻れないという現実も踏まえながら、「仏教事始め」と言われますように、葬式をまず一つの縁としていくことを大切に考えております。葬式もしないという本当に悲しい現実もございますが、布教もある意味一般社会でいうところの営業であると感じます。人の心を動かす仕事として精進してまいりたいと思います。

こんな時代だからがんばってほしいです。

  • 回答者:匿名 (質問から7時間後)
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有難うございます。
「こんな時代」にしたのは僧侶の怠慢だったと反省しながら布教をしています。仏教は人の心の闇の問題を乗り越えられるものであると信じます。

私は北陸の福井に在住しています。
北陸では浄土真宗の本願寺派も大谷派も多くの信者が住む土地柄です。
福井県には永平寺のほかにも「三門徒派」などの本山もあります。
子供のころから仏教の行事やいろいろなお寺との接点があります。
今でも5月になると京都から「蓮如聖人」の御影の輿が旧街道を通って北潟湖畔の吉崎御坊まえお渡りがあります。
福井市内には浄土真宗派の高校が2校ありますから授業でも「仏教」の時間があります。
今でもお彼岸やお盆などには、老若男女が墓参りをする姿がたくさん見られます。
北陸では今でもいろいろなところに寺町があり、歴史が守られています。
仏教の教えの原点に返って、ぜひ頑張っていただきたいと希望しています。

  • 回答者:ソーダさん (質問から29分後)
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とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。
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有難うございます。
浄土真宗の教えが根付いている、いわゆる真宗王国と言われる地方が全国にはあります。そういった地方から離郷(転居)された方々の支えになればと思っています。親鸞聖人、そして蓮如上人が常とされた門徒と膝を交えた布教を私も実践してまいります。

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