種子島で正しいと思いますが、
伝わった時間や場所にはいくつか異説があるようですね。
「北条氏康が子供の頃、鉄砲の音に驚いた」という逸話があるのですが
氏康の少年時代は通説での鉄砲伝来よりかなり前なので、
この話が正しいとするなら通説よりかなり前に鉄砲が伝わっていることになります。
まあ、こっちの方が間違いなのでしょうけど。
一方、鉄砲の使用法により戦い方が変わったとされる長篠の戦いは
通説に対し双方の兵力運用や戦術に関して様々な異論が出ており、
少なくとも「柵の後ろからの鉄砲三段撃ちに騎馬隊が突撃して壊滅」というのは
間違っているという意見が多いです。真実半ば、嘘半ばというところでしょうか。
通説の流布に関してはよっぽどあの合戦図屏風の影響が大きいんでしょうね。
===補足===
考えてみれば種子島時尭という領主は先見の明がある優れた人だったんでしょうね。
大金をはたいて二挺購入、一挺を研究用にして同じ物を製造させたのですから。
時尭の主君である薩摩島津氏も鉄砲を積極的に運用しています。
鉄砲は物凄い速さで全国に普及し、
日本で鉄砲が高値で売れたとの噂を聞きつけた外国商人達も
何人もやって来ては鉄砲を売りましたが
既に国内で量産されており思ったほどの利益は出なかったそうです。
ちなみに年を経るに従って国産火縄銃の質も向上し、
来日した宣教師や商人も驚くほどだったそうで、
一説には既に欧州産の火縄銃よりも上質だっとも言われています。