ヒューマンと同源だからです。ユーモアは人間と深く関連しています。
人間は文化や社会で形成されますから、それらとユーモアもまた深く関連しています。
オノマトペ(擬音・擬態語)がたくさんあるこの国で、その手のギャグが発展するのも道理でしょう。
同様の理由で、駄洒落=地口の場合は英語圏のほうがたくさんあります(シリアスな話をしているときには、ついうっかり韻を踏まないように気をつけなければいけないくらいです。)
シェイクスピアのなどは地口だらけですが、あそこに出てくる道化が話す言葉、あるいはその自ら存在そのものが優れて社会批判になっていることは重要でしょう。
イギリスやのブラックなユーモアは人種や階級や性の差別を平然と滋養にしますが、それは彼らの歴史があってこそのものであるし、またそれらをユーモアにできるという文化があるのです。
これらのことを踏まえると、「ユーモアといったら、ギャグ=駄洒落」なってしまう疑問のほかに、この国ではそのユーモアが社会へ直接言及しないという疑問も生まれるでしょう。社会風刺のユーモアは日常的には話されず、不条理劇などの舞台や純文学のなかで細々としか生きていない。風刺漫画が問題となるニュースをたまに聞きますが、決まってそれは海外のニュースです。
そして、「ユーモアが社会へ直接言及しない」というのが、この国の人間を形成する文化や社会をあらわしています。