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邪馬台国論争について質問があります。どちらかといえば歴史に興味ある方にうかがいますが、先日のNHKニュースで、奈良県桜井市の箸墓古墳が邪馬台国の女王卑弥呼のお墓であることが有力!だと放送されましたね。でも邪馬台国は九州に存在していたという九州説も出ています。今回の箸墓古墳で私的には、くぶくりん邪馬台国は畿内説(奈良県)に存在してたんではないかな?と思いますが。。どうでしょうか?

  • 質問者:歴史に興味あり
  • 質問日時:2009-06-02 18:25:55
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回答してくれたみんなへのお礼

たくさんの方々から回答をいただいてありがとうございました♪とても勉強になりました!

箸墓古墳のニュースで畿内説がより強まりました。
九州にあったとする場合、その後何故衰退したのか等の疑問が...
畿内は、その後も日本の中心として長く栄えていました。
奈良にあったというのが有力だと私も思います。

  • 回答者:トクメイ (質問から4時間後)
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とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。
お礼コメント

回答ありがとうございました☆どなたにベスト回答を差し上げようかな?と迷いましたが、箸墓古墳のニュースで奈良にあったと思う!と強く主張されてたと私的に感じましたので、トクメイさんにさせていただきました☆

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これはあくまでも私の私見なので、そのことを先にお断りします。
なぜ邪馬台国の論争が起きるのかというと、邪馬台国と大和朝廷を連続したものととらえるのか、別のものととらえるのかということがひとつあります。
連続したものとしてとらえるならば、神話の天照大神を卑弥呼に比定して考えると神話もスムーズに読み解くことができます。そうした考えからすると、畿内説が都合がよいと考えられます。
連続していないと考えれば、邪馬台国がどこにあろうと関係ないわけですから九州の吉野ヶ里遺跡など魏志の記述と符合する点が結構あるようですね。
また、古くからいわれることで、魏志の記述自体が曖昧で、当時朝鮮半島にあった帯方郡から邪馬台国までの道のりは、そのまま素直に読むと九州の遙か南の海上になってしまいます。そこで、伊都国までの書き方とそれ以降の書き方に違いがあることに注目して、伊都国以降は伊都国からの道のりだと解釈すると九州におさまります。吉野ヶ里なんかちょうど良い位置にあるわけで、吉野ヶ里遺跡が発掘されたときはもうこれで決まり!という雰囲気もありました。伊都国からの方角は90度間違っているとして解釈するとだいたい畿内に行き着くようです。
神話は史実が裏にあるという考えを否定しません。人々の昔の記憶が神話という形で残されたと考えることはむしろ自然なことだと思います。しかし、だからといって神話を事実としてとらえることは、戦前の日本がたどった危険な道に通じるとも思います。それに、中国の史書に頼った歴史ですから、どこまで事実が書いてあるのかということも検討する必要があります。何しろ、漢民族以外は全て未開の野蛮人(東夷・北狄・西戌・南蛮)だと考えていたのですから、本当に事実を書いてあったのかというと「?」だと思います。それをもとにああだこうだと論争してもむなしいと思います。私たちが普通「魏志倭人伝」といっているものも、本当は「魏志東夷伝」です。
私の考えとしては、邪馬台国が大和朝廷に連続したものとするのは、音が似ている点からもなかなか魅力的なものですが、敢えて連続したものとしてとらえる必要はないのではないか。ということです。

  • 回答者:y (質問から1日後)
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シナの歴史書です。信ずるに足りません。邪しい馬の台国など、日本ではありません。卑弥呼にしろ、(弥)いよいよ卑しい呼び名が、宛てられており、日本の祖先の首長の名前ではないのです。
日本には、古事記、日本書記といった正史があります。シナの歴史書など関係ないのです。

  • 回答者:匿名希望 (質問から1日後)
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今回の古墳の出現で畿内説(奈良県)が有力になったような気がします。

  • 回答者:bb (質問から21時間後)
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少なくとも、邪馬台国の中心は、畿内に有ったんじゃないかな? そもそも、邪馬台は、中国人(魏)の当て字だし、「ヤマタイ」ではなく「ヤマト」がより正しい発音ではないだろうか? 同じような時期に畿内あった大和国(大和も、同じく中国人の当て字だが・・・)が、邪馬台国だったのだと思う。

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畿内説を指示できますが・・、魏志倭人伝に書かれたことなどのことを考慮すると・・、やっぱり九州かなと思いますね~・・。

  • 回答者:Sooda! ちゃん (質問から4時間後)
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その後の時代では、関西が栄えていることもあいまって、畿内だと思います。

  • 回答者:のの (質問から4時間後)
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確かに今回の古墳で奈良説が有力になった気がしますが、
中国との関係を考えると奈良はちょっと地理的に疑問もあります。
私は九州説派でしたが、今回のことで
五分五分という感じになりました。

  • 回答者:匿名 (質問から4時間後)
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たしか吉野ヶ里遺跡が発見されたときも同じような報道だったと思います。
結局、長屋王屋敷跡のように文字に拠る確たる証拠が出ない限り断定出来ない
のでしょう。

畿内と九州ならば九州説を支持します。
魏志倭人伝で伝えられている方角が近畿だと無理が出てきます。
大元の文献(魏志倭人伝)は否定する材料がない限り最大限尊重するべきだ
と思います。トロイのシュリーマンも考古学者の勝手な解釈に耳を傾けず、イーリアス
の内容を信じトロイの遺跡を発見するに至りました。

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奈良県民としては奈良県ですね。
京都も古い都ですが、奈良にすんでいると時間が止まったような、古代人がふっと現れてくるような錯覚を感じることがあります。
こだわっているわけではないですが・・・。

  • 回答者:奈良と京都ってちょっと違う (質問から3時間後)
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自分が結論を出してやると思いましたが、魏志倭人伝の読み下しを何度読んでも理解できません。
地理的に九州説に傾いています。
早く決着をつけて欲しいけれど、権威とか学閥とかの俗物によって結論を出されないことを祈っています。

  • 回答者:一照 (質問から2時間後)
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なにしろ国内に文献が全く無く、魏志倭人伝のわずかな記述にしか国名が明記されていない古代国家のことです。
そもそも、名称が本当に邪馬台国であったかどうかも定かではないように私個人は思います。

当時大陸と交易があり、大規模な国家として一目置かれるほど付き合いがあったのは、地理的により近い、佐賀・吉野ヶ里かその近辺の大規模集落であったと見るのが正しいのではないかと私個人は推察するものです。
街道も整備されていない当時の日本国内で長距離の移動を要する畿内までのパイプが、それほど太いものであったとは、思えませんですし。

今回の奈良の古墳については、年代がたまたま一致するようだというだけで騒がれていますが、当時ある程度大きな墳墓を作るに値する権力の持ち主が亡くなったようだというだけで、卑弥呼の卑の字も現在のところできていませんので、これを彼女のものとしたがる一派の発表は、単にこじつけているだけのようにしか見えません。
こんなものまで邪馬台国畿内説の有力証拠と言わなければならないほど心理的に追い詰められているのか、と、傍から見ていて情けなくなってきます。

  • 回答者:別にどちらでも構わないと思うのですが (質問から27分後)
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時代背景からも まわりの環境からも 近畿 に1票です。そこに証拠といえる物質証拠もでたなら 奈良。

  • 回答者:クム (質問から19分後)
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時代背景からも まわりの環境からも 近畿 に1票です。そこに証拠といえる物質証拠もでたなら 奈良。

  • 回答者:クム (質問から19分後)
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私は考古学が好きで、吉野ヶ里遺跡にも行きました。
吉野ヶ里遺跡を見たら、九州に邪馬台国があったといえば
そうかも知れないと思うほどです。
また、天照大神が卑弥呼で四国に邪馬台国があったという説もあります。
邪馬台国が大和朝廷になったと考えるのが妥当かも知れませんが、
考古学は科学捜査と同じで、証拠は嘘をつかないということです。
遺跡や遺物がものをいいます。
箸墓古墳の発掘を見守るのが一番だと思います。

  • 回答者:いずも (質問から15分後)
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