神と人を同列と考えてるように見えます。
神様ですよ?人間と同じ思考回路なわけないじゃないですか。
それに、神様は気まぐれだし、賽銭箱の前にいつでもいるわけじゃないでしょう。いつでもいるんだったら、いつ願いごとをかなえてくれるというのか。
あと、手垢といいますが、手垢と不浄は違うと思います。お賽銭する前のところに手を洗って不浄を清めるのです。そのときは手は清められてるはずです。洗っていない人もいますが。
あと「宮司さんありがとう」とあるけど、別に宮司さんへの感謝じゃないでしょ、賽銭というのは。宮司さんはあくまで場所を提供してくれるだけで、神社の管理者なわけで、神の代行者というわけじゃないんですから。その行為に感謝してもいいかもしれませんが、それはそれ。神様への感謝じゃないですよね。
それにいっぱいいたら「うぉーりゃー!」って投げたほうがわかりやすくて神様も気づいてくれると思いません?私は面倒だからそんなことしませんけど。
神を人間と同じと考えすぎです。人間は神の模倣とか言われるけど、少なくとも神様は人間より成熟した存在であるのは間違いないと思います。
===補足===
いや別に怒っていなかったんだけど。むしろ、POOHBEARさんのほうが怒ってるように見えます・・・。えっと、私の言い方が悪かったです。ごめんなさい<(_ _)>
別に私自身明確に信仰しているものはありません。しいて言うなら神道ですね。なので、存在はわりと信じています。ただ、人間と同じ思考で物事を考えているということにちょっと違和感を覚えただけです。
確かに、神話では人間くさい神様も結構います。それはご指摘のとおりです。その点が私自身、神様=完璧とできなかった点です。そうすると「人間くさい神」など、否定できる神様がいることになり、信仰の自由というところから外れてしまうことを懸念したためです。回答していてその点に矛盾を感じたので、ちょっと曖昧な形で表現しました。
とりあえず、ここでは神=完璧として語ります。
1に関しては、お金は確かに煩悩の塊みたいなものです。が、供物とは本来、形あるものです。
神様は小銭をほしがるわけがないというよりも、何物も欲しないというのが正しいんじゃないでしょうか。精神的なことで考えれば、ささげるものは何でもいいんだと思います。それが小銭でも、そこにこめられた想いというのが重要だと私は思っています。だから商売でも金額より語呂合わせなど縁起をかつぐんだと思います。
賽銭にお金を用いるのは、あくまで、それが手段として定着したからで、想いがあれば問題ないと私は考えています。
2の点に関しては確かに、前もって用意しておくべきなのかもしれません。そこはまあ、形式的でいいということで。そんな手間かけられないしね。
おっしゃるとおりだとは思いますが、そこになぜか金銭欲が前提として考えられているように思います。お賽銭をお金と考えることは煩悩としての表れじゃないでしょうか?
精神的なことというのは目に見えないもので、人間はそれを何らかの目に見える形で表したいと思う生き物です。それが信仰というものだと思います。
傍から見れば単純に信仰の対象とそれに対する信仰方法が違うだけに見えます。
信仰としてどうなの?って聞いてるんだと思うのですが、信仰の仕方って宗教によってそれぞれで、さらに言うと人それぞれで、感謝の仕方もそれぞれなので、ああなんかそれぞればっかりでよく分からないことになってきたけど、とりあえず、それぞれだから、やり方もそれぞれなんですよ。
それがたまたまというか成り行きというのか、まあ、とりあえず小銭を投げ入れるという行為が一般化して、その行為をする人が多くなったから、結果的に投げつけるように見えるだけで、実際には感謝の心というものをもって行っているはずなんです。そう思ってる人ばっかりかどうかは知りませんけどね。
とまあ、長々と語ってるけど(って確認したらら本当に長くてびっくりした)、そういえば、私はわざわざ時間をかけてでも、前のほうに行ってお賽銭してることを思い出した今日この頃。
さあ、私はそれぞれって何回行ったでしょう?答えは検索で自己採点してください(ォィ)
- 回答者:考え方は面白いけど (質問から5日後)
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