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江戸幕府が滅亡した理由はなんですか?おおまかでいいので教えてください。

  • 質問者:あっきー
  • 質問日時:2016-09-17 12:38:48
  • 7

簡単に説明すると、江戸時代末期、ペリー来航以降の国内は混乱・問題が続き、幕府体制の行き詰まりもあり、幕府の政治力に失望した薩摩藩は武力討幕に方針転換して、討幕のため長州藩と同盟を結び、岩倉具視を通じて討幕の密勅の下賜を得ましたが、慶応3年10月14日(1867年11月9日)に、討幕を目指す薩長を中心とした討幕派との内戦を避けるため、土佐藩主の山内豊範は大政奉還の建白書を第15代将軍の徳川慶喜に提出して、慶喜は受け入れて徳川による260年以上続いた統治権を朝廷(天皇)に返上して、同年12月9日に王政復古の大号令によって、江戸幕府の廃止が公式に宣言されました。
慶喜の大政奉還による行動は、天皇の下に一元化される新体制において、自らが主導的役割を果たす道を見出そうとするものでしたが、大政奉還によって討幕派は討幕の大義名分を失うかに見えたが、朝廷に提出した大政奉還上表の内容に、討幕派の最大の関心事であった慶喜の将軍職辞任には一切触れておらず、慶喜は武家の棟梁としての地位・権力を失っていなかったため、討幕の密勅の下賜以降、薩長を中心とした討幕派は大規模な軍事動員を開始し、この動きを制するため慶喜は10月24日に将軍職辞任を朝廷に申し出ましたが、討幕派の朝廷方や岩倉具視たちは、慶喜の無力化を図るため王政復古クーデターを敢行して、自らの手で王政復古の大号令を発し、幕府廃止と新政府樹立が宣言され、慶喜に新政府から排除、地位や領地を返上するように命じました。
慶喜は、武力衝突を避けるため会津・桑名藩兵とともに大坂城に退去して、諸外国の公使らを集めて自身の正当性を主張しましたが、薩摩藩の挑発によって薩長を中心とした討幕派の新政府軍と旧幕府軍は武力衝突することになり、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)が始まり、旧幕府軍は戦いに敗北、進軍してくる新政府軍に対して、新政府側の西郷隆盛と旧幕府側の勝海舟が会談して、慶応4年4月11日(1868年5月3日)新政府軍が江戸総攻撃を中止する代わりに、旧江戸幕府の本拠地である江戸城を無血開城で明け渡すことで、江戸幕府は事実上滅亡しました。
もっと詳しい内容を知りたいのなら、ネットで検索して調べましょう。

  • 回答者:とくめい (質問から9時間後)
  • 11
この回答の満足度
  
とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。
お礼コメント

おおまかでいいので教えてください。と書きましたが、とても詳しく知ることができました。本当にありがとうございました。

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